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2009年7月28日火曜日

広告かレビューかわからないレビュー記事

 ゲームに限らず商品のレビューの中には広告かレビュー記事か判断しかねるものが少なからず存在する。
 以前パソコン関連の雑誌を読んでいたとき通常の記事なのかと思いきや単なる広告だった覚えがある。
 そんな雑誌広告に近い記事がネット上のサイトでも見受けられるようになった嘆かわしい事実を今回は書きたい。

 あからさまに場違いな場所でファーストフードの試食レビューのようなものを見てもサクラを使って話題性作りをするようなあの業界なら広告料でも払って仕掛けているんだろうぐらいにしか思わない。

 個人的にファーストフードというものに関心がないからその程度にしか思わないのかもしれないがゲームに関する事となれば話は別である。

 具体的な名称は避けるが以前から評判のよくない某ゲーム情報誌では広告料を多く支払った(または広告の量が多い)会社のゲームはすこぶる評価が高くなるなどの噂がある。

 本当にそういった事実はあるのか?と問われれば当然その情報誌はそんな事実は無いと答えるだろう。

 しかしその情報誌を読んだ読者の多くが言うのだから当たらずとも遠からずといったところではないのか?

 媒体が紙かネットかなどには関係なくそのような情報誌が書くような記事ならばどれも似たり寄ったりなのかもしれない。

 しかしゲーム情報メディアそのものがそのような事になってしまったらどうだろう?

 ユーザーは何を元に何を根拠に購入する前のゲームを選べばいいのだろうか?

 おみくじのように中身を確認するまで良いか悪いかわからないような当たるも八卦当たらぬも八卦的なものになるのか。

 レビュー記事を信用して粗悪なゲームを掴まされた人は自己責任ということなのだろうか?

 最近ではすぐに自己責任という言葉を持ち出して責任があるにも関わらずそこから逃げ出す無責任な人がいる。

 すでに企業等が使う「自己責任でお願いします」は責任者なのに責任を取らない無責任者のへ理屈にしか聞こえない。

 そんないい加減な人達の言葉でも信用してしまう人はいる。

 それを正直者はバカをみるで済ませていたのでは、ただでさえ罪の意識が欠如している無責任な者達の詐欺行為を助長してしまうことになる。

 そういう愚か者を取り締まる為に法があるのだが現在の不当景品類及び不当表示防止法でゲームのレビューまで該当するのかわからないし前例もまだない。

 しかしこの法では事業者とあるだけで販売元に限定しているわけでもないのでまったく当てはまらないというわけでもなさそうだ。

 間接的な行為であっても金銭の授受があれば取り締まれるかもしれない。

 こういう事態にメディアが盾として使うのが「国民の知る権利」と「言論の自由」だ。

 まず「国民の知る権利」では、いきなり我々国民が最前線に立たされるのだが頼んだ覚えもないしむしろメディア等とは反対の意見という場合が多い。(この場合は不当な表示に対するメディアも含めた強化)

 次に「言論の自由」だが、一般国民の声に対して「これはネガティブな情報だから…」とメディアが自分勝手に解釈して真実にもかかわらず隠蔽してしまうことがあるなど、すでに国民はメディアから言論の自由を奪われているに等しい。

 彼らが使う「国民の知る権利」の国民はメディア関係者のみを指し「言論の自由」とはメディアが使用することに限定した言論にある。

 自らはすでに国民に言論統制のようなことを強いておきながら、いざそのメディアが規制の対象になるやもしれないその時だけ国民を持ち出すのは止めにしてもらいたい。(名ばかりの有識者を集めた台本有りきの“フォーラム”でも開いて満足しててくださいな。)

 ゲームというものに対してそこまでうるさく言わなくてもいいと思う関係者もいるかもしれない。
 しかしながら世界的不況の真っ只中にあってはたかがゲームと言えども安いものじゃなくなっている。
 
 子供の給食費すらままならないような人、派遣業でゴミのように使い捨てにされた人、名ばかりの管理職で激務にも関わらず賃金の低い人等をはじめとする生活困窮者と呼ばれるような状況の人が増えてる。

 そのような人に対して「そもそも、そんな人らはゲームなんかするべきじゃない」なんて言う人もいるかもしれない。

 たしかに食うのにすら困っているのにゲームなんてというのは一理あるかもしれない。

 でも「生活が良くならないのは能力もなければ努力も足りないからだ」みたいなこと言うのは前のアメリカ大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュのそれと同じだ。

 なによりそれが豊かな国と言えるだろうか?この日本が。

 ゲームすらまともに遊べない人がいてそれを蔑む人がゲームを楽しむなんて、国も貧しければ心も貧しい国に思えてならない。

 そんな貧民国家に落ちぶれない為にも事実の提供というは当たり前にあってしかるべきなのではないかと思う。

 嘘を事実のように語り、事実を嘘で覆い隠しているようではいずれそんなことになってしまうような気がしてならないのだ。

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